ある青年がいた。
その青年が住む街は、いつも厚い霧がたちこめていて、
大体数メートル先しか見えない。
でも、幼いころから、ずっとそうだったので、
それが当たり前だった。
この世界はそんなものだろう、と思いつつも、
どこか心には雲や霧がかかっていて、
もやもやと気分は晴れなかった。
幸せってなんだろうな。
忙しく過ぎる日々の合間に、
ふとぼんやりと
厚い雲と霧がたちこめる景色を眺めながら、そんなことを思っていた。
小さなころから思ってきた。
この街の人たちはみな、
いま、ほんとうに心が喜ぶことよりも、
未来の幸せのために、いまを犠牲にしている。
そして、いつの間にか、大人になった自分も、
この社会の一員として、
自分の本心が喜ぶことよりも、
やらなきゃいけないことや、周りや社会の期待に応えることを優先し、
社会的な肩書や役割、人からの評価を気にしながら、
生きながらえている。
もちろん、生きていれば
楽しいことや嬉しいことも色々あるけれど、
それも一時、つかの間で
いずれ過ぎ去っていく・・
未来の幸せって、いつ来るのかな
本当の幸せって、なんだろうな
そんなある日、友人から、
「この街とは全然違う、知る人ぞ知る、隠れた桃源郷(ユートピア)がある」
という情報を耳にした。
でも、そこに行く途中で、
いくつもの深い森や、お化けやモンスターがいて、
それをクリアした先に、その桃源郷が現れるのだと。
一瞬怖いと思ったが、
青年は、この桃源郷の話をきいて、なんだか心がおどった。
久しぶりに、心の底からワクワクした。
数日後。
気づくと、青年はリュックひとつで旅をはじめていた。
でも、もちろん地図には載っていない。
グーグルマップももはやお手上げだ。
どこに向かったらいいのか、さっぱりわからない青年は、
途中会う人に道を尋ねたり、情報を検索しつつ、
手探りの旅を進めながら、あちこちを旅した。
何年もの月日が流れた。
この何年もの旅の中で、様々な人に出会い、桃源郷への道を聴き続けた。
全然わからない、とか、
本当にそんなところはあるのか、と訝しがられたり、
むしろ知っているなら教えてほしい、という人たちがほとんどだったが、
一部の人たちは、多分こっちの方向だと思うよ、
と教えてくれた。
たしかに、その道を進んでいくと、
霧も少し薄くなったような気がするし、
ちょっとずつ近づいているような気になることも度々あったが、
「これぞ桃源郷!」
という場所には未だ辿り着かない。
この道で果たして合っているのだろうか、
正直、とても不安になる。
こんなことをしているくらいなら、
早く戻って、以前のように、普通に生活したほうがいい気すらしてくる・・
それでも、途中出会う人々に道を尋ねながら、
あちこち行ったり来たりを繰り返しながら進んでいくと、
すでに桃源郷に行ったことがあるとか、
普段はそこに住んでいるとか、
その確実な道のりを知っている
という数少ないレアな人たちとも出会うようになった。
その人たちの話は、
世間でいわれていることや、社会通念とは180度違うので、
青年は正直、何を言っているのか、よくわからなかった。
でも、よくよく聴いていると、
なんだか気持ちが楽になったり、
自分の内側の深い部分がじんわりするような感覚があった。
そして、この
「なんだかわからないけど、楽になったり、じんわり暖かくなったりする」
という心の感覚が、青年にとっての唯一の羅針盤となった。
さらに旅を続ける過程で、
住み慣れた街を出発したころと比べたら、だいぶ霧が薄くなってきたが、
霧がたちこめる深い森の中に迷いこんだときは、
モンスターの声や、大きなへびのようなものが足に絡みついて転んだりと、
恐れおののいたこともあった。
しかし、なんの因果か、
「やっぱり桃源郷にたどり着きたい」
ただ、その思いが、どんな誘惑にも勝った。
そうやって旅を続け、いくつもの森を抜けるうちに、
かなり霧が薄くなってきた。
いまはだいぶ気分がいい・・
視界が徐々に開けてきた・・
まだ向こうのほうは相変わらず霧がかかっていて、
ぼんやりしかみえないが、
直感的に、この霧の向こうに、「それ」があるような気がした。
でも、まだ霧もたちこめているし、夜明け前で、足元は暗いので、
それ自体は見えない。
そして、よくこの道の先をみてみると、
そこにはなにか崖らしき影のようなものがみえる。
「そうか、あの桃源郷は、この崖の先にあるんだ」
そう思った瞬間、青年の足はすくんだ。
恐怖で、足ががたがたと震え出した。
崖に落ちるリスクを考えたら、あきらめて引きさがることもできる。
今なら、引き返せる。
でも、どうしても、あの桃源郷にたどり着きたい、
その一心で、ここまでやってきた。
どうすればいいの?
ぼくは本当はなにがほしいんだ?
青年は、心の内に尋ねた。
そして、このどうしようもない怖さを、暫くの間、ただ感じていた。
すると、どのくらい経っただろうか。
これまで通り、あの霧のたちこめた暗い街に戻って、
もやもやに蓋をしたまま、やり過ごす人生を過ごすくらいなら、
一か八か、わたってみよう!
と体の底から勇気が湧いてきた。
ようやく、心が決まった。
「もうすべて天におまかせだ、なんとでもなれ」
すると、向こうのほうから、なにやら声なき声が聴こえてくる。
「ハロー、おかえり」
静かだけど、穏やかで優しく明るい、はっきりとした声が聴こえた。
その声を聴いた瞬間、霧はすべて消え、
そこには、どこまでも続く大地と花々、雲一つない美しい青空が広がっていた。
まさにそこは、長年探し求めていたユートピアだった。
来た道のりを確かめようとうしろを振り返ると、
そこには霧がかかった森も崖も、モンスターも、もうどこにもなかった。
いまはただ、美しい景色が、ただ静かに穏やかに広がっていた。
そのとき青年は、本当は霧など存在せず、
生まれ育った街の霧の幻影をずっとみていただけかもしれない、と気づいた。
そして、いつまでも頭の中でつくりあげた、
その幻影ばかりをみていたから、
本当はいつでもここに、
この美しいふるさとがあったことに気づかなかっただけだったことを悟った。
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