真実の愛を探す旅人のお話

 

あるひとりの旅人がいた。

その旅人は、長年、ある真実の泉を求めて、旅をしていた。

 

その旅人は、

判断(ジャッジ)だらけ、制限だらけの国に住んでいて、長年、「心から幸せ」と言える状態を体験していなかった。

窮屈だが、まぁ人生はこんなものか、と思いながらも、

どこかに心から満たされるユートピアの世界があって、

そこにいつか到達することを夢見て旅を続けていた。

 

そんな自国で湧き出る水は、濁りがあり、味気なく、ストレスの塊のような水。

 

これまでの記憶の限りでは、その美味しくもない、味気ない水しか飲んだことがない。

 

そして、飲んでも飲んでも、すぐに渇いてしまう。

飲めば、一瞬渇きは癒える気がするが、すぐにのどは渇き、

決して十分に満たされることはない。

 

この旅人だけでなく、

この国の住人は皆、喉がすぐに渇いてしまうので、

「もっともっと水が欲しい」となり、みんなこぞってこの水を求める。

競争によって水を獲得し、もしくは失い、

他の人にとられないように、失くならないようにと、

得た水はできるだけ自らの手元に蓄えておく。

 

でも、このことが国全体で当たり前になっているので、

それ以外の水があることに、気づかない。

 

だが自国の水以外にあるのではないか、と諦められない旅人は、

あの「ポジティブな」住民が多く住んでいると噂の隣国にいけば、

「もっと美味しい水が手に入るかもしれない」

という情報を耳にした。

 

その水は、今飲んでいる水よりも美味しいらしい

乾いたのども、ちょっと潤う時間が長くなるらしい・・

 

旅人は、のどの渇きにもううんざりしていたので、

意を決して隣国に行き、そのうわさの水を飲みにいくことにした。

 

数日歩いてようやく隣国にたどり着き、

そのうわさの水が飲めるという泉に到着。

その水は、もともとこれまで飲んできた濁り水に、ちょっと美味しくなる味付けがされた、ポジティブという名の調味料入りの水。

この日も多くの隣国の住民たちが

この水を求めて飲みにきている。

 

水はキラキラと輝いていて、濁った自国の水より

一見とても美味しそうだ。

 

「私のイメージ通り」

旅人は思った。

 

旅人に、この水を飲む順番がやってきた。

期待に胸を躍らせ、ドキドキワクワクしながら、

ひと口、水を飲む。

 

たしかにいつもより綺麗な水だし、

美味しいし、なんだかちょっとポジティブになって、

高揚感も感じられる、

そんな水だ。

 

うん、いい感じ。

とうとう、見つけたのかもしれない!

旅人は興奮した。

 

が、それも束の間。

飲んでしばらくすると、また「渇き」が戻ってきた。

そればかりか、様々なネガティブな感覚が押し寄せ、

気分が重たい。

旅人は焦りと不安に包まれた。

 

 

旅人は、辺りにいた隣国の住民に、

この水の解説を求めた。

 

すると、水に詳しい隣国の住人が、

「この水は、

あなたの自国の水に、「ポジティブ」という

栄養成分を追加した水だよ。

だから、喉はいずれ乾くが、君の国の濁った水よりも

ちょっとはポジティブな気持ちになれるし、

喉が乾くまでの時間は少し長いかもしれない」

と答えた。

 

さらに、水に詳しいその住人は付け加えた。

「この水は注意事項がある。

飲むと楽しい感じになったり、自信が得られたように感じたり、

高揚感が得られるのは確かだが、

喉が乾いた時は、逆に、悲しくなったり、劣等感を感じるなどネガティブな気持ちに苛まれる。

だから、決して飲み過ぎてはいけないよ。」

 

旅人はそれを聴いて、正直に心の内に尋ねた。

 

「今に比べればマシなのかもしれないけれど、

少し経つと戻ってしまう・・そればかりか、

元に戻れば喉の乾きは増すのかもしれない」

 

「私は、そんな水が本当に欲しかったのか。

私は、本当はどんな水が欲しいのだろう」

 

旅人は、この国の水に全ての望みをかけていたのに、

と絶望感や無力感に襲われていた。

 

旅人は、もう、長年の水探しに疲れ果てていた。

 

旅人は、泉の横に座って少しの間瞑想し、

自問自答を繰り返した。

 

しばらくすると、心の内側から、

 

「私は、本当に満たされる、真実の水を求めている」

と小さな、だけど、はっきりとした声が聴こえた。

 

 

 

これまでずっと、探し求めていた。

絶え間なく水が湧き出ていて、

どこまでも味わい深く、いつでも満たされる、そんな水を。

外側の何かや誰かに求めたり、誰かから勝ち取る必要もなく、

失う心配も必要ない、そんな水を。

 

「でも、それは一体どこにあるのだろう」

 

そんなことをぼんやり思いながら、

旅人は

その隣国から帰る途中、あるひとりの水の研究者に出会った。

 

その研究者に、旅人は

長年、真実の水を探してきたこと、

純度100%の水を飲みたいこと、

飲めば本当に満たされる水のありかを探していること、

を率直に伝えた。

 

隣国まではるばる水を飲みに行って、絶望感を抱いたことも

正直伝えた。

 

旅人が、心からのこの望みを打ち明けると、

その研究者は、

「そもそも、このポジティブとかネガティブといった、そういう「判断」を超えた世界の「外」に出ないと飲めないよ」と言った。

 

そして、

「あなたが求めている、「判断の世界」の外にある

真実の愛の泉は、すでに今、あなたの足元に、ずっとあるのだよ」

と付け加えた。

 

これまで全く知らない世界に出ること。

 

それは、少し怖くもあったが、

その研究者が言っていることは、なぜか本当だと思った。

 

 

「私は、長年探し求めてきた真実の水を飲みたいんです。

あなたが言っている、「判断」の外の世界に出たところの

真実の泉に連れて行ってください」

 

旅人は、その研究者に懇願した。

 

すると、その研究者は、「はっはっは」と笑って、

「今言っただろう。それはすでに、あなたの足元にあるのだよ、今この時も。

それは物理的などこかにあるのではない。

あなたの心の奥底に、すでにずーっとあるのだよ。

だから、外の世界をいくら探しても見つからないよ。

それは、これまでの経験の中で、十分気づいていることでしょう」

 

と言った。

 

旅人は、はっと気づいた。

 

そして、この研究者の言葉通り、

瞑想をすることにした。

なぜなら、これまでの経験の中で、

瞑想は、「判断の世界」から離れる方法であることを

知っていたから。

 

旅人は、自らの内側に

真実の愛の泉があることを信じて、

瞑想を始めた。

自らの内側に、ひたすらそれを求めた。

 

すると、どのくらい時間が経っただろう。

 

これまで常に湧き出ていた思考(判断)が

シーンとしてきて、どんどん静かになってきた。

 

それがどんどん静かになると同時に、

幸福としか呼べない感覚が、どんどん拡大していく。

大きく広がっていく。

とてつもなく自由で、感じたことのない解放感。

愛としか呼べない、全てが受け入れられているという

深い深い安心感。

 

しばらく、旅人は、このなんとも言えない

感覚を味わっていた。

もう何も考えられなかったし、

何も考える必要はなかった。

 

全てはすでに与えられていたし、

欲しいものは全てここにあったことがわかったから。

もうどこかに出かけて探す必要も、求める必要もなかった。

 

それは、なんとも言えない安心感だった。

 

 

「判断の世界」の外にあるその水に触れたら、

なんとも言えないしあわせに包まれる。

完全に満たされる。愛としか呼べない、

ただここに存在することの素晴らしさ。

その泉は、ずーっと無限に湧き出ていて、

自らを生かしてくれている、愛そのもの。

 

旅人は、感激し、感極まって泣いていた。

 

のどはもともと渇いていなかったことにも気づく
そんな不思議な水

ただし、この水は、これまでの判断という枠組みから

飛び降りたところにわき出ている。

 

そして、どの水を飲みたいかは、

いつだって、自らの気持ち次第。

 

旅人は、この今日起きた素晴らしい体験をどんなときも忘れないよう、

そして、多くの人たちとこの素晴らしい体験を分かち合えるよう、

メモとペンを取った。

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本当の幸せとはなにか。

自分が本当に求めているものはなにか。

それを考えるきっかけにしていただければと思い、

水(幸せ、愛)を求める旅人のお話を書いてみました。

それでは今日もウェルビーイングな1日をお過ごしください。

 

はなみ ゆうか

 

 

 

 

嘘のつけない本音の時代へ

有名な、ある嘘つきの童話のお話です。

 

昔々、青々と茂る野原に、少年が寝そべっていました。

少年は羊飼い。

毎日牧草を食べる羊の番をしています。

 

「退屈だな・・」

毎日同じことの繰り返しで、飽きていた少年は、

もっと面白いことがあったらいいのに、と思っていました。

「そうだ!」

羊飼いはいいことを思いつき、むくりと起き上がって、

「オオカミがきたぞ!」と大きな声で叫びました。

 

すると村人は、家から飛び出してきて、

「オオカミはどこだ」と尋ねます。

 

その慌てた顔が面白くて、次の日も

「オオカミがきたぞ」と叫びましたが、

次第に村人たちは、オオカミがいないこと、

少年が嘘をついていることがわかると、

そのうち、誰一人、出て来なくなりました。

 

そして、ある日、本当にオオカミが出た時、

少年は大声で叫びましたが、

少年がまたホラを吹いていると思っている村人たちは、

誰も助けに来てくれません。

 

結局、オオカミは羊を残らず食べてしまい、

「もう嘘なんかつかないよ」と

 

少年は心に誓ったのでした。

 

この話は、ちゃんちゃん。ここで終わります。

 

 

子どもたちに、嘘をついてはいけないよ、

ということを教えるための逸話として

とても有名なお話ですね。

知らない人はほとんどいないでしょう。

 

 

幼く純粋な子どもの頃の私たちの多くは、

この言葉を真摯に受け止め、

できるだけ嘘をつかないようにし、

 

大人になってからも、

誰かに怒られることや否定・非難されそうなこと、

他者から受け入れられない、と感じる事柄については、

他者に嘘をついて、自らの内に隠したり、

時には外部に反発するなどして、

対処してきました。

そんなときは同時に、

罪悪感も感じるかもしれません。

 

 

一方、大人の世界(社会)はどうでしょう。

よくよく見ると、

「建前と本音」が分かれた世界、ではないですか。

 

「あれ、嘘はダメって言っていたのに」

 

 

というか、「綺麗な建前」で塗り固められた世界、と言ったほうが

言い得ているかもしれません。

 

「建前」といえば表現は柔らかいですが、

それは本音と対極にあるので、

はっきりいえば、「嘘」の世界ですね。

 

複数の人が集まれば、みんなそれぞれに思いが違うので、

バラバラにならないように

みんなで秩序を保って、なんとか上手くやっていこう、

という現れでできているのが「建前」。

だから、「綺麗な建前」笑。

そして、その中を私たちは懸命に、健気に生きています。

 

そして、

「建前」という名のもと、

社会を上手くコントロールして秩序を保つための、

さまざまな「ルール」「常識」が

「真実の顔のふりをして」

でんと構えています。

 

 

でも、そこには残念ながら、「本当」はないですね。

だって、一人ひとりの本音を隠した、

大人の綺麗な顔をした嘘ですから。

だから、社会にいくら「真実」を探しても、

何も見つからないでしょう。

 

建前も、ルールも、常識も、

それ自体が悪ではなく、

そういうのもあるよね、と

それに振り回されなければ良いのですが、

 

それによってさまざまな不自由さや窮屈さを感じたり、

ストレスやフラストレーションを抱えて

苦しんでいる人が本当に多いのも事実です。

 

ですが、そのような建前(嘘)の世界の中で

苦しむ必要は全くないよ、ということを

ここではお伝えしたいんです。

 

ここで、とても大事なこと。

この建前ワールドの中では、

自らの「本音」に対して、大きな嘘をついている、ということ。

本当の自分の思い、は見ないふりをして蓋をしている、

ということです。

 

そして、

建前と本音は必ずどこかでズレているので、

(だから建前は存在できます)、

そのズレが積み重なれば積み重なるほど、

ストレスに感じます。

 

そのズレ自体に、

「こんな自分はダメだ」と罪悪感を感じることもあるでしょう。

 

また、それを感じるのが嫌なので、

自らの本音はとにかく無視し、

社会に合わせることを最優先し、

社会の価値観と自らの思いが同化している人も多いことでしょう。

特に日本はこれが顕著なように思います。

 

本音に蓋をし、聴かないようにしていった結果、

自らの本当の気持ちがわからなくなります。

 

でも、その本音はただ心の奥底に隠れていて、

聴いてほしい、って叫んでいるので、

本音を隠せば隠すほどに心は重たくなっていきます。

 

本当はどうしたいのか、がわからない・・

何がしたいのか、わからない・・

相談される方から実によくいただく声のひとつです。

 

 

それが膨れ上がると、心がパンパンに対処しきれなくなって、

悲鳴をあげてしまいます。

 

 

一方で、「内なる心の声(本音)」を聴くことは

ダイレクトに愛につながっていく道です。

 

まずは、あなたの内なるその本音を、

あなた自身がただ聴いてあげるだけで、

かなり楽になっていきます。

 

そして、その本音を「出し切ったら」、

かなりスッキリするはずです。

気分だけでなく、頭もスッキリ、

視界もクリアに見えるかもしれません。

(これはできれば他人に対してではなく、紙に書き出すなどして、自分でやって見ることをお勧めしますし、安全なやり方のワークショップもやっていますので、ご興味あればご参加ください)

 

「そんなことしたら、

この世界の秩序が保てなくなるじゃないか」と恐れる人が

いるかもしれませんが、

 

一人ひとりが、自らの本音を大切にして、

気分よく、心地よく、幸せに過ごしていたら、

無理なく、自然と、調和の方向に向かいます。

 

 

気分がよかったら、周りに対して自然とオープンになり、

優しくなれることは

人間誰しも経験していることですね。

 

そんなとき、あなたの周りの人も、そんな気分の良い

あなたに同調して、次第に心地よく

優しい気分になることでしょう。

 

これこそが、真の調和の世界です。

 

現在、社会の至る所で、これまでにないくらい

さまざまな問題と言われることが世に明るみになったり、

これほどまでにメンタルヘルスが話題になったり、

これまでのルールや秩序では、対処できなくなっているのは、

「本当のこと」「人々の本音」がどんどん表に出てきているからでしょう。

 

それは、美しい建前で塗り固められた嘘の世界から、

本音を生きる、愛の世界へシフトし始めているからかもしれません。

 

本当のことを生きたい、

自分に嘘をつかずに生きたい、

本当の愛を生きたいし、

ありのまま、自然体で生きたいし、

建前や体裁ではなく、

本音と真実に沿った生き方をしたい

 

 

約10年前、私が感じていたことを

率直に書いたメモに、そのようなことが書いてありました。

今も変わらずそのように思っていますし、

実際、そのように生きています。

 

 

もし、同じように感じている、もしくは感じ始めたあなたは、

とても芯が強く、勇敢です笑。

 

そして、本当の幸せを生きている、

もしくは生き始めたのではないでしょうか。

 

本音を生きるととっても楽に。

もっと楽になっていいよ。

 

 

はなみ ゆうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらゆる思い込みから解放され自由になるには

「今の自分じゃ不十分だ」

「もっとこうならないと幸せでない(もしくは、将来こうなったら、幸せになれる)」

「人から評価されない、認められない」

「愛されているか不安」

「人から愛されない私はダメだ」

などなど、

 

私たち人は、

人生で起きる様々な出来事がきっかけで、

様々に否定的な思い・感情を感じる生き物です。

 

また、

それらを感じるのがあまりにも嫌だと、

仕事であれ何であれ、

それらを考え、感じる隙がないように

日々の生活において常に自分を忙しくし、

外側の物事に埋没することによって

その不快な思いを見て見ぬふりをしたりもします。

 

今日は、そんな私たち人間の宿命とも言える、

ネガティブな精神構造(特に罪悪感や無価値感)

を根っこから落とすためのきっかけを

分かち合いできればと思います。

 

まず、人は、「自身の思いを投影」して、相手をみています。

とくに、家族であったり、パートナーであったり、

親友であったりと、

その相手が

あなたにとって近しい人であればあるほど、

その投影度合いが強くなります。

 

どういうことかというと、

例えば

「自分のこんなところが嫌だ」とか、

「自分のこんなところがだめだ」

と思っている部分や、

逆に「自分のこんなところが好きだ」、

「こんな点は良いところだ」と思っている部分、

 

また、

「人とはこうだ」「この出来事はこうだ」

「この場合はこうすべきだ」

とジャッジしているあらゆることを、

相手や周りの出来事全てに投影して、

ほぼ無意識的に判断を下している、

ということをやっているのです。

 

それを、「お互いに」

ほぼ無意識にやっています。

 

幼い頃は、周りにいた身近な大人たち、

親や育ててくれた人たちとの関係でそれが生じます。

 

例えば幼い頃、親や周囲の大人たちから何か言われた場合に、

それがポジティブなことであれネガティブなことであれ、

「私にはこんな一面があるんだ」

と、それを「自分の構成要素」として

幼く純粋なあなたは、

何の疑いもなく、採用していきます。

 

それによって、

自分というアイデンティティが確立していく

のです。

 

ですが、それは、

その親だったり周囲の人自身の「投影として」

あなたを観た時に思ったことなのであって、

真実のあなた自身を指し示しているわけではありません。

 

ですから、

それらがどんなことであれ、

あなたを正しく表現できていません。

 

同様に、あなたが誰かに対して判断していること全て、

あなた自身の投影で、その相手をみているだけで、

相手を正しくみれていません。

 

これが人間同士、人類規模で日々おこなわれています。

 

お互いさま、といったところでしょうか・・^^;

 

ですから、

たとえば誰かが、

あなたのことをいくら否定したとしても、

それはあなた自身のことを言っているのではなくて、

 

◯◯はだめだ、嫌だ、やってはいけないことだ、

などとその人が思っている部分を

あなたに投影して見ているに過ぎない、

その人の中で否定している部分を

単に表明しているにすぎない

のであって、

あなたが傷つくことは全くないのです。

だって、それは真実ではありませんから。

 

つまり、

人は、過去にあらゆる人があなたに対して下した判断、

それらの記憶の集約を「自分自身だ」と思って

勘違いしているだけなのです。

 

そして、

それはあなたの周りにいた全ての人からの

様々な投影、様々な判断が混じっていて、

本当に多種多様なので、

あなたという情報が錯綜し、混乱しているのです。

 

それが、

自分自身のことがよくわからない状態に陥ったり、

苦しみの元になっているのです。

 

これが腑に落ちると、

「偽の自分」がごそっと落ちて、本当に楽になると同時に、

本当のピュアな自分に出会えます。

 

腑に落ちるには、

やはり瞑想だったり、それに類するワークが

助けになることでしょう。

 

本当のあなたに目覚め、出会えますように。

 

 

それでは本日も、ウェルビーイングな週末をお過ごしください^^

 

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