本来の幸せな社会とは

年度が変わり、学校や会社も新しいスタートをきっていますが、

いかがお過ごしでしょうか。

 

先月末の年度終わりに、

私がいつも一緒にお仕事をさせていただいている会社の社長さんが

任期で退任することになり、

その場にたまたま居合わせたこともあって、

社員の向けた退任のご挨拶を一緒に聴けたのですが、

その際のご挨拶の中で、

「楽しむ」という言葉を何度も繰り返されていらっしゃったのが

とても印象的でした。

 

どんな小さな仕事にも、その中に楽しさを感じること

何よりも自身の人生なのだから、

日々楽しく仕事に取り組み、仕事以外でも日々楽しいなと感じる時間を増やしていくこと、

その楽しさが、本当の意味でお客さんや社会に貢献していくことにつながるのだ、ということ・・等等

 

「明日のために一生懸命頑張る」「未来をより良くするために今を我慢する」という、

バリバリ世代の方からそのようなお言葉を聴いたときに、

なんだか時代の大きな転換をものすごく身近に感じた瞬間でした。

 

これまでの社会では、

学校でも仕事においても

知識や論理や計算といった左脳的思考を重視してきて、

感覚や感性といった、私たちが本来幸せを感じる右脳的な機能を軽視してきたように思います。

 

本来、私たち人間にとって一番大切な

「今ここの幸せを感じる心」や「自らの幸せを育む心」が

だいぶ置き去りにされてきてしまったように思うのです。

 

いつも今は満たされなさを感じながら、

いつ来るかもわからない未来の幸せ、未来の安心(という幻想)のために、

今を犠牲にし、今楽しむことを無意識に拒絶し(それを罪悪感という感覚で感じ)、

あれこれ忙しく日々が過ぎ去っていく・・

 

それが当たり前のように、ほぼ共通の観念として、

私たちの人生に染み付いていたのが

これまでの時代であったように思います。

 

「忙しい」の「忙」は、心を亡くすと書きますが、

まさに言い得て妙ですね。

 

私は普段、さまざまな企業さんの「健康経営(企業の社員の皆さんの心身の健康増進を会社全体として推進する経営的な取り組み)」

をサポートするお仕事をさせていただいているのですが、

ここで様々に発生している問題の根本には、

「楽しさや愛、幸せ」といった、私たち人間の本質である

「純粋な心」を置き去りにしてしまったことにあると

常々感じています。

 

ですが、知識や論理といったものは

あくまで心を表現していくための道具なのだから、

本来、「幸せなあり方(心)」をベースに、

知識や論理などの「道具」を「使っていく」

ことが大事なのではないでしょうか。

 

どんな人も、いつも幸せを感じていたい、

それは人類共通です。

 

社会の仕組みもルールも、日々の私たちの社会的な活動も全て、

幸せに生きるために生み出されたものが

 

いつの間にか、それらに縛られて窮屈に感じるという・・

 

そんな本末転倒な状態のひずみが、

会社や学校など、いたるところで顕在化するようになりました。

 

それは、一見苦しいことに見えると思いますが、

時代の大きな転換期において、

私たち一人ひとりが自身や人生を見つめ直す、

とても良いチャンスにもなっていると感じます。

 

一人ひとりが、これまで無意識に使ってきた

「犠牲感」や「べき思考」、

今のままではだめだといった「罪悪感」を手放して、

「安心や楽しさや幸せ」といった本来私たちが兼ね備えている

「純粋な意識」の中で日々の暮らしを生きはじめたとき、

社会も本来の機能を発揮した

幸せな社会になるのではないか、と

思います。

 

今日1日、いや、今この瞬間に、どんな幸せを感じていますか、

どんな喜びを感じますか。

どんなに小さなことでも良いので、

探してみましょう。

どんな状況であれ、

その視点で見ようとすれば、必ず見つかります。

 

それでは今日も、それぞれにウェルビーイングな週末の続きをお過ごしください。

 

はなみ ゆうか

 

 

 

 

 

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